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なぜ選ぶたびに後悔するのか

現代に生きるわたしたちの毎日は、数えきれないほどのオプションや選択肢との戦いの日々でもあります。
しかし、ほんの数世代前までは、わたしたちの祖先は選択肢がほとんどない生活を送っていました。
どんな仕事をしてどんな生活をするのか、選ぶことができるのは恵まれた環境にいる人だけでした。
いまのように多くの選択肢が次々と目の前を通り過ぎる環境に生活していて、はたしてわたしたちはそのころよりも幸福になっているのでしょうか?

本書『なぜ選ぶたびに後悔するのか』では、ある程度の選択肢を持つことが幸福であったとしても、多すぎる選択肢は人を幸福にはしない、と言っています。

わたしたちは選択肢があるとき、それが多すぎることの弊害を自覚しないかぎり、無視できない。そしてわたしたちの文化は、選択の自由をどこまでも神聖視していて、選択肢は多いほどいいに決まっていると信じている。買い物に出かけて、イライラしたりケンカしたりすると、見当ちがいのところに責任を持ち込む。店員の感じが悪いとか、渋滞がひどいとか、値段が高すぎるとか、在庫切れとかのせいにして、選択肢が多すぎるのだとは考えない。

その反動でしょうか、シンプルな生活を推進する『ボランタリー・シンプリシティ(あえて単純に暮らす)』という趣旨の本や雑誌が増えています。
それらに根底で共通するのは「選択肢が多すぎ、判断すべきことが多すぎて、ほんとうに大切なことをする時間がなくなっている」という思想です。

本書で紹介されている実例はこんな感じです。

「1日が終わりに、やることばかりで、立ち止まって考える時間などない。自分の願望や欲求を大切にする時間もない。(中略)
あなたの生活を単純にする具体的な方法を提案します。これを実践することで、余計なものを取り払い、『しなければならない』ことではなく、やりたいことに意識を集中できるようになるでしょう」

これはアメリカの雑誌の例ですが、こういうテキストは日本でもよく見かけると思います。
自分が『本当にやりたいこと』に集中して、それ以外の余計なものを削ぎ落としていこうという提案ですね。

これに対して、著者はこう書いています。

自分の「願望」を大切にし、自分の「やりたい」ことに意識を集中するのが、多すぎる選択肢に対する解答だとは、わたしには思えない。むしろそれぞれ、ひとりひとりが、自分の願望に意識を集中するからこそ、これだけ種々雑多な選択肢が生まれるのではないだろうか?

結果的に、選択肢が増えれば増えるほど、人は心理的な負担が増えて幸福ではなくなっていく。

では、このように選択肢がたくさんある生活を送っていくうえで、どういう対策ができるのでしょうか?

とるべき戦略は「最大化(マキシマイズ)」ではなく「満足(サティスファイ)」である。

つねに最高・最大を求めつづける人は、どんな選択肢をしても満足することは無く、もっといい選択ができたのではないかと思います。
買い物や決断をするたびにそれが最高・最善のものだと確かめずにはいられない。確信するためにはすべての選択肢を調べなければならない。そして、そのためには大変な労力が必要になる。
こういう人を「マキシマイザー」と定義します。

それとは逆に、最高・最善ではなくても、「そこそこ」のもので満足することができる、ある程度の選択基準を自分の中に持っていて、その基準に合格すれば、すべての選択肢を調べなくても満足できる。
そういう人のことを「サティスファイサー」と定義します。

完全なマキシマイザーは存在しません。
なぜなら、「あらゆる選択肢」を調べるということは事実上不可能なことだからです。
そのため、マキシマイザーはつねに「妥協した」という気持ちを抱くことになります。

本書の前半では、ノーベル経済学賞を受賞した心理学者のカーネマンによる「プロスペクト理論」を援用しつつ選択のプロセスを語っていますが、それ以降はこのマキシマイザーとサティスファイサーの違いを解説しています。
自分がマキシマイザーかどうかの自己診断テストもあり、またどのように改善していくのかという処方箋もあります。
自身の生活の質(クォリティー・オブ・ライフ)を高めたいと思っている人は、一度読んでみるといいと思います。

人生の一切は選択である