「エコ罪びと」の告白
世の中には
「100年前の暮らしに戻れば、環境問題は解決する」
という極論を語る人もいるようです。
でも、
まず経済が発展していないことには
環境の問題を考える余裕などないわけで、
100年前の暮らしぶりに戻ることが解決策とは思えないのです。
環境問題を語るのが難しい理由は、
それが、経済や文化なども含めた
グローバルなシステム管理の問題だからです。
本来は感情ではなくバランスシートを元にして語るべき問題なのに
環境問題を口にする人の動機の多くが感情に根ざしているため
余計に問題が複雑になってしまいます。
環境問題に関する書籍の多くも同様です。
著者がどの立場にいるのかを考慮して読まないと
読み終えても得るところが多くない
ということになりかねません。
通りの真ん中で大声で懺悔をする偽善者のような本は読みたくありません。
さて、本書はどうでしょう。
著者は「ニューサイエンティスト」の元編集者。
世界中を取材した内容にも関わらず
あまり気負った風もなく、
できるだけ中庸の立場で取材をしようとしているのが好感を持てます。
現代の私たちは、かなり恵まれた暮らしを送っている。お金さえあれば、文字どおり何だって買えるし、大多数の人たちは、ほんのひと昔前の親や祖父母の時代には、夢にも思わなかったような生活をしている。最近出会ったある科学者によると、先進諸国の平均的な家庭の道具や食品や衣料がそろった生活を、古代ローマ時代に再現しようとしたら、六千人以上の奴隷が必要になるという。料理人、メイド、音楽家、氷室の管理人、木こり、扇であおいでくれる妙齢の美女などだ。
「妙齢の美女」と扇風機はかなり違うのでは、という突っ込みもあるかと思いますが、やはりここにも「個人化」「モバイル化」という文明の発展のベクトルを感じます。
そのへんは別の話として、ここで大事なのは
消費者にとって、自分が消費する製品を誰が生産しているのかわからない、生産している人の顔が見えない。 ということです。
古代ローマ時代に六千人の奴隷を使っているなら、
今日の食事を誰が作ったのか(もし知りたければ)知ることができます。
いま、スーパーの有機農産物などのコーナーへいくと
生産者の顔写真や名前が表示されていることが多いですね。
この「顔が見える」というのは
一方通行のプロモーションではなく、
消費者とのコミュニケーションを大事にするのであれば(間違いなくそういう時代なのですが)、
必須の要素となってきています。
そして、「生産者の顔が見える」(そして、消費者の顔も見える)という関係作りが
グローバル化した社会の中でも実現できれば
環境問題を解決していく、大きな原動力になるに違いありません。
本書の内容には、ほとんど触れていませんが、
この本はそういう本です。
「自分が着たり食べたりしている物は誰が作っているのだろう」
という疑問から出発して、世界中を巡る旅を綴ったものです。
誰が作っているか見えるからこそ、その暮らしぶりが気になる。
自分が払ったお金の行方が気になる。
意外な事実や知らなかったことがてんこ盛りですが、
それよりも、著者の相対的な物の見方が心地よい本です。