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なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか

あなたはエイリアンに誘拐されたことがありますか?

以前紹介した『本当にあった嘘のような話』によれば、

アメリカ人の17%は幽霊を見たことがあるといい
10%が悪魔と話したことがあるといい
400万人が宇宙人に誘拐されたことがあると話している。

そうです

いやはや、大変な時代に生まれてしまったものです。
ちなみにエイリアンに誘拐されることを「アブダクション
誘拐された人のことを「アブダクティー」と呼びます。

専門用語がつくとそれらしく聞こえてくるから不思議です。

本書の内容を説明するには、目次をそのまま書き写すのが一番わかりやすいでしょう。

第1章 いったいどんないきさつでエイリアンの研究をすることになったのか?
第2章 なぜエイリアンに誘拐されたと信じるようになるのか?
第3章 もし起きていないなら、なぜ記憶があるのか?
第4章 アブダクションの話は、なぜこれほど一致しているのか?
第5章 どんな人が誘拐されるのか?
第6章 もし起きていないなら、なぜ起きたと信じたがるのか?

この目次からもわかるように、著者はアブダクションを信じていて(専門用語言うなら「ビリーバーで」)アブダクションの存在を科学的に解明しようとして研究したわけではありません。
もちろん、科学者なので予見を持たないように臨んでいるのだと思いますが、エイリアンの存在自体は(そして、エイリアンが宇宙船に乗って地球にやってきているということは)科学的に立証されているわけではないので、科学者としての立場としては「エイリアンの存在についてはなにも立証されていない(つまり存在は確認されていない)」と思っていてしかるべきでしょう・

では、なぜ「エイリアンに誘拐された」と思い込むことを、わざわざ研究する必要があるのでしょうか?
信じてもいないのに?

第一の理由は、エイリアンとは関係ない。単にアブダクション が”奇妙な信じ込み”であるからだ。奇妙なことを信じるのは(中略)いまも昔も人間の特質である。だから、このような奇妙な信じ込みをひとつ選んで徹底的に研究すれば、人間が風変わりな考えを持つようになるメカニズムを解明できるだろう。
第二に、奇妙なことを信じていると、その人にとってよくないかもしれないからだ。(中略)カール・セーガンは科学は知識の寄せ集めではなく考え方(中略)なのだと主張した。そして、この思考方法は、教わらなければ身につかない。「このような骨の折れる思考習慣」を学んで実践しないと、「なんでも信じるおめでたい人ばかりの国になり、あたりをうろついているペテン師に簡単に食い物にされてしまう危険がある」
第三に、なぜ人は奇妙な話を信じるのかを理解するのは、人々を……人間というものを……もっとよく知りたいと思っているすべての人にとって大切なことだからだ。

もうひとつ、著者にとって重要な理由として、研究を始めた当時の心理学者を取り巻く状況がありました。
そのころ、「回復された記憶」というのが社会的に学会的にも議論の的になっていました。
回復された記憶とは何でしょうか?
心理療法を受けた患者が、心理療法を受けたことをきっかけにして、幼児期に体験してその後すっかり忘れていた心的外傷を思い出す、ということです。
何が問題なのかというと、「心的外傷を受けたあと忘れていた」のではなく、「体験していないことを思い出す」のではないか、という議論があったからなのです。
実際には体験していないことを『思い出す』ことで、思い出した当人にとっては、本当の記憶と区別がつかなくなっています。
なかには実の父親を幼児期に性的虐待をしたといって訴える例も出てきました。
その父親にとってはまったく身に覚えがないことです。
なぜなら、その記憶は心理療法士の誘導で作り上げられてしまったものだったからです。

背景には、フロイトの理論を安易に取り入れた心理療法士が、専門外の精神医療行為をしようとしたことがあるようですが、心的外傷をすっかり忘れてしまうことがあるのか、という重要な点に関して言えば、ほぼ否定されているという状況のようです。

そのようなケースの中にアブダクションの体験を思い出す人もいました。
これは「回復された記憶」というメカニズムについて(そんなことがあるのかということも含めて)研究する良い材料だったようです。
しかも、幼児期の性的虐待というテーマに比べて、アブダクションは社会問題化していない安全なテーマでした。

さて、研究がどのような結論を出すのか、興味がある人は本を読んでいただくとして、
私が感じたことを書きますね。
本書の研究対象になっている多くの人は、エイリアンに誘拐された記憶を誇らしく思ったり、注目を集めるために周囲の人に言いふらしたりするわけではありません。むしろ、その体験の記憶に戸惑い苦しんでいます。
自分自身の記憶が信じられない、それもはっきり思い出せるのに本当だとは思えない、という経験はそれほど多くの人がする体験ではないでしょう。
わたしたちは自分の記憶には絶大な信頼を寄せて生活しています。しかし、記憶というのは、ノートやパソコンのように記録したものがそのまま残っているのではなく、思い出すときに脳内にあるバラバラのイメージから再構成されるものだそうです。つまり、いずれにしろ記憶は真実ではなく、作り上げられるものです。本書に登場するアブダクティーたちとわたしたちにどれだけの違いがあるのでしょうか?